1. 京焼・泉涌寺地区と盆栽鉢
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株式会社陶あん本店(京都府京都市東山区泉涌寺東林町38)

 

昔の泉涌寺地区の地図

『京焼百年の歩み(昭和37年刊)』より、当時の泉涌寺地区の窯分布図。赤囲みが現在も同所に位置する陶あん、緑丸は平安東福寺が焼成した借り窯、青丸は月之輪涌泉が勤めていた窯。

 

東福寺の顔写真

泉涌寺地区の借り窯にて、職人たちと和む平安東福寺=水野喜三郎の姿(左端)。昭和36~37年頃の写真と思われる。

 

 

京焼・泉涌寺地区と盆栽鉢

明治から大正に移る頃、第一次世界大戦を契機とする世界的な需要拡大を受け、京焼は隆盛を迎えます。他産地からの事業所移転や職人の流入で従事者人口が増える一方、粟田、五条清水といった昔ながらの主産地で、市街地化や風致地区としての制限が始まります。このため未開の丘陵地であった日吉地区、続いて泉涌寺地区が開発され、移転開窯が相次ぎました。

このうち大正5年頃から開発された泉涌寺地区の陶史は古く、古くは豊臣秀吉が方広寺・大仏殿を造営するにあたり瓦窯を築いて製造させた場所でした。その職人たちは「大仏瓦師」と呼ばれ、大正初期には十軒余の瓦窯を数えたといいます。ここでご紹介する「平安泉山」=土渕善亜貴(どぶちよしあき)氏は、その泉涌寺地区で開業百年を迎えた、京焼・清水焼窯元「陶あん(あんは庵の旧字)」の4代目当主です。

実はこの地、盆栽界と深い因縁を持ちます。昭和30年以降、盆栽鉢作家の最高峰と言われる平安東福寺や月之輪涌泉、平安香山などがこの近辺に居を構え、この地の窯で作陶しました。特に平安東福寺はこの地域の登り窯に作品を持ち込んで焼成する「借り窯」によって、あの膨大な名品群を生み出しました。京都泉涌寺地区は、日本最高峰の鉢作家たちが鉢作りに情熱を注ぎ、その出来に一喜一憂した、盆栽鉢ファンなら心踊る「聖地」なのです。

 

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